酒飲み親父の自分史 「昔ロックしてた俺へ」

酒飲み親父が昔の手帳を見て半生を振り返るブログ

卒業式 ~1985年3月 その2~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1985年春、私は大学を卒業、就職、それと同時に新宿でバンド活動をしていたのだ。
この頃は新宿LのPLMと言うバンドに参加していた。

1985年 3月25日 4:00~新宿L
                             卒業式
新宿Lで練習の後、大学の卒業式に行く。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

俺の大学は都内から遠かった。
初めの頃は電車で通っていたが、家からは2時間かかった。
朝6時過ぎには家を出ないと間に合わない。
電車は都会から田舎方面に行くので、座っていられた。
30分くらいは仮眠できた。
最寄り駅からは、階段を20分昇る。
時間ぎりぎりだと、駆け上がらなくてはならない。
大学に着いた頃にはヘトヘトである。
間に合わない時は、あきらめてジャズ研究会の部室に向かった。
練習台で二つ打ち。
あっという間に1時間潰せた。

3年生になると、車通学が許される。
新宿から通学する友人にガソリン代を払って便乗させてもらった。
友人はRCサクセションのファンだったので、ずっとRCを聞きながら通った。
「トランジスタラジオ」を聞くと、車窓の風景を思い出す。

さて、3月25日。
この日は、卒業式だった。
朝4時から新宿Lで練習。
その後、大学の卒業式に行っている。
卒業式だから、多分スーツを持って行ったのだろう。
あるいは、研究室に置いておいたのか。
全然覚えていない。
間違いないのは、練習後に新宿Lで一杯やってから行った事だ。

俺の所属するN研究室は、学科の内で一番人気があった。
希望者は多かったが、運よく俺は2人の枠に当選した。
なぜ人気があったのかというと、N教授が優しいからである。
退官の近い独身のお爺さんだった。
卒論も緩く、発表会も無い。
俺はN教授がいなければ卒業出来なかった。

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卒業論文提出期限の日、俺はギリギリで学科の事務所に持っていった。
受付のおばちゃんは、もう締め切ったと言って受け取ろうとはしない。
こんなに遅く提出する学生はいないからだと言う。
俺は1分前だと言って引き下がらない。
押し問答が数分続いた。
しかし、急におばちゃんの態度が変わった。
大丈夫、受け取ると言い出したのだ。
訳が分からなかった。
ふと、俺は後ろを振り返った。
そこには、頭を下げたN教授が立っていた。

俺の大学には、大きな講堂が無かった。
無かったというより、学生運動が盛んなので、作らなかったのかもしれない。
正門の前には、毎日紺色の機動隊のバスが1台止まっていた。
窓に金網の張ってあるやつだ。
時には裏門にも1台いた。
ある年の学園祭には、「機動隊の放水車が学内に突入します」
と放送があったほどだ。
一般学生は学外に出されたので、本当に突入したかどうかは分からない。

こういった理由で講堂が無いので、おそらく学科ごとに教室で卒業証書をもらったのであろう。
俺の学科の卒業生は100人少しほどだった。
一つの教室で事足りた。

卒業式の後、どこかのホテルで謝恩会が行われた。
この後の事はよく覚えている。
俺のN研究室には大学2名、大学院1名の卒業生がいた。
ちなみに大学院卒は、ジャズ研で同じバンドのKさんである。
立食パーティーの後、各研究室対抗の余興大会になった。
真面目な理系大学生の集団なので、即興の余興など面白くない。

俺はアントニオ猪木の物まねでダンシングオールナイトを歌った。
酔っ払い相手には大いにうけた。
余興大会で優勝すると、N教授はことのほか喜んでくれた。
君は入学した時は5番だったのに、卒業する時は100番足されたね。
でも、君ならどこでも生きていけるよ、と言って笑った。

この後街に繰り出して、ジャズ研の卒業生達と朝まで飲み明かした。


ーつづくー