酒飲み親父の自分史 「昔ロックしてた俺へ」

酒飲み親父が昔の手帳を見て半生を振り返るブログ

大学生最後のバイト ~1985年1月~

f:id:sakenomi_oyaji:20200601063929j:plain

新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1985年、私は大学4年生だった。大学ではジャズ研究会、それと同時に新宿でバンド活動をしていたのだ。
この頃は新宿LのPLMと言うバンドに参加していた。

1985年 1月 21日 7:30 森下倉庫
大学生最後のバイトだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

俺は大学生の時、トラック運転手の助手のバイトを長い間やっていた。
スチール机やロッカーの配送だ。
土日はもちろんだが、春休み、夏休みは稼ぎ時である。
当時としては、日給がよかった。1日8500円貰えるのである。
この資金で楽器を買っていた。

トラックの朝は早い。
朝7:30には江東区の森下にあったスチール製品の倉庫からトラックが出てしまう。
遅刻は厳禁だ。
俺は遅刻した事がなかった。
夜遅くなった時は、寝ないで行ったからである。
トラックが高速道路を走る間は少し寝ていられた。

日によって、行く場所も、運転手も違う。
初めての場所に行く時はナビゲーターもする。
俺は神奈川方面の担当だった。

配達先は大きな会社が多かった。
トラックが配達先の工場の門の前で止まると、走って守衛の所に行って配達伝票を見せる。
内線電話で相手の担当者と話をして、配達する場所にトラックを誘導するのだ。
そして、運転手と共に机やロッカーを運ぶ。
これを、何件か繰り返す。
トラックの移動が長い程、休んでいられた。

配達が全部終わると、倉庫に戻って翌日の荷物を積む。
配達するルートの逆に伝票を見ながら、運転手と荷物を積み込むのだ。
そして、ロープで荷物を固定して、シートをかける。
これで1日の仕事が終了だ。
大学4年生の頃にはベテランになっていた。

一番嫌だった配達先があった。
それは学校である。
学校にはエレベーターが無い。
職員室が2階にある場合は、スチール机とロッカーを運転手と2人で担ぎ上げるのだ。
古い物と入れ替えるので、それを降ろして積んで帰らなければならなかった。
新築の学校の場合は、もっと地獄である。
全部の教室に机と椅子を運ばなければならない。
1日中、荷物を階段上げだった。
全部の教室が終わるまで、何日も通った。

 二番目に嫌だったのはスポーツジムだ。
鍵付きのロッカーは死ぬ程重いのだ。
これを運転手と2人で運ぶ。
通路は台車に乗せて運べるが、室内は手運びだ。
地下室に階段で運んだ時は、死ぬ程辛かった。

バイト最後のころは、沖縄出身のGという若い運転手と組む事が多かった。
Gは若いのに、自分で買ったトラックを持ち込んで配達をしていた。

ある日、2日続けて次の日もGと組む事になった。
この日のトラックの荷台は何故か空だった。
トラックが空の時は、荷物を朝積むか、朝から廃品を回収するかのどちらかだ。
夜遅くになったので、俺は帰る事を諦めた。
次の日は例によって早いのだ。
そこで、新宿Lの前の小滝橋通りにトラックを横付けした。
荷台で俺と、運転手Gと、新宿Lの店員でPLMのギタリストでもあるNの3人で宴会をした。
もちろん、運転手Gは飲まなかったが。
何時間か仮眠して、そのまま仕事に行った。

今思えば、よく駐車禁止を切られなかったな。
夜中だから助かったのかもしれない。

1985年1月21日は、学生アルバイト最後の日だった。


ーつづくー